朝ぼらけ

遠浅

超楽しかった翌日のリバウンド凹みが来ている

同じ映画を2回観る体力がなくなった。

1回観たものを繰り返して観るのは時間が勿体無いなと思った自分が嫌になった。

益田ミリの新聞エッセイを職場の人が切り抜いて持ってきてくれて読んでみたら、「オタクって羨ましい」「熱中できる、好きなものがあるのは(異様な阪神ファンだった自身の父を含めて)かっこいいと思う」というようなことが書いてあってちょっとよく分からなかった。嘘、彼女の書きたいことは分かるんだけど、その「好きなものがあるっていいな」という感覚を理解できなかった。これはオタクの市民権の話と似たようで違う、個体としての感情の差の話。私はオードリーの若林さんが好きだし一生漫才とラジオをやっててほしいしグッズのパーカーだって買うけれど、潜在能力テストを観たりスクール革命を観たり日向坂の番組を観たりはしない。あちこちと、ラジオと、エッセイと、ノートと、あと対談ぐらいだ。この押さえるポイントが人によって変わるのはあると思う。ジャニオタの先輩はLINEスタンプ購入はもちろん、1時間のバラエティの1コーナーに出演するのだって録画するし1冊のうち2ページしか載ってないような雑誌だって買っていたし、とにかく出演するものを全部押さえていた。この先輩みたいな行為のことを「オタクがする一般的なやつ」と思ってるから「好き」に対するハードルが上がってるんじゃないか。違うのかな。

ここまでしないと「好き」と言ってはいけないみたいなものを感じる。そんなことないのに。自分の感覚の手綱がどこかに行ってしまってることに気付いてない、というパターンも考えられるけどだいぶ怖い。


記事を読んだ時、今は産休に入っている職場の人に「あなたは好きなものがあって羨ましい。わたしにはそんなにハマれるものはない」と言われたことを思い出した。私の周りには「これが好きでさあ」と話すような人しかいなかったから。強いて言うなら大学の時の知人がその好きなものが分からないような感じだったかなあと思う。全て疎遠になったから今はもう分からないけれど、彼女らが熱狂的にこれが好き!と話していた記憶がない。県下の進学校に進んで、県下の大学に入って、そのまま地銀にパン職で入って早めに結婚するのが安全だし正解だと信じていたひとたち。青文字系を進行していたひとたち。何を話していたのかも思い出せないもう4年も前の話。そういうことなんだろう。


好きなものが無いのではなくて、感情の振れ幅が5ミリずつくらいしかないのだ。もしくは、好きと主張するためのチェックリストが異様に多い。自分で思えばいいだけなのに。誰に向かって言ってるんだろう。


この前都内の友達と話していて、地震に新しい株に大変そうだけどたまにザマミロと思ってしまうとボヤいたらいや東京の人間はそんなの気にしてないし地震に関しては「え〜?」という感じでオミクロンに関しても「なに、新しい株〜?」というノリで何一つ動揺もショックも受けてないし大変じゃないよと言われて「ああ」となった。そんなもんなんだろうな。


1か月くらい前、部屋の整理と周りの動きを見ていて悔しいと思った。

自分で手に入れたはずの、扶養を抜けてもちゃんと歩いていける道が今はまた畦道になっていることが許せなかった。石畳の綺麗な道だったはずなのに。取り戻したいと思う。前は悔しいと思うことも恥ずかしかったし取り戻すなんて考えるのもみっともないと思っていた。でももうそんなのは言ってられない。手綱を離したらどうなるか分かってきてしまった。怖いと思う。

畦道を抜け出したい。その為に何が必要で、どういう風に動いていけばいいのか考えている。







お昼は白身魚と小松菜とおにぎり(胃腸に優しく)

ここ最近体調が良くない。

胃腸をやられてポカリとおうどんの暮らしになったかと思えば微熱が続いて身体がダル重になったりしている。

免疫力向上を狙ってココナッツオイルを適度にサラダにのっけて食べているのに何故。解せない。

そんな感じでうとうと昼寝をした日曜日、1社目の夢を見た。私はまだそこに在籍していて、帰省で実家にいるという設定で。「あ〜明日東京に帰らなきゃいけないな〜だるいな〜熱出たって言って休も〜」とめちゃくちゃナチュラルに考えた自分をしっかり覚えていて、起きてその事実にかなり引いてしまった。癖になっとるがな!!耐えろや!!!それは辛さでなく甘え!!!こわ!!!!

今の仕事は「今日いけません、グスン」をやると厳しいことになるので良くも悪くもその半強制的な出勤に割と助けられて/鍛えられてきたんだな...と思うなど。前はよくあった、晩に「あーだめだ、明日休も」と決めて翌朝連絡をするムーブをもう随分やってない。そんなことしないのが普通(この普通っていうのも嫌いだけど、少なくとも私の周りで私みたいなムーブをしていた小中高大の友人はいなかった)で、当たり前のことなんだけど。苦しいとか辛いという気持ちは本当だったけど、それにかまけてめちゃくちゃ怠惰になっていたんだなとも思う。おそろしや。人間は簡単に楽な方に流れるしマヌケになる。だらだらするのが好きとか、頑張りたくないとか、それを本心から言えるならもちろんそれで良いんだけど私はそうはなれなかったから。頭痛いな〜と思いながらとりあえず出勤する。ダメなら半日で帰る。ハナから投げるというのをしない。それだけで、何かに対する罪悪感がだいぶ減った。これは「耐えるのが美徳」とかそういうのではなくって、「なるべく投げない」ことの満足感に対する気付きの話。

もう26なのに未だにそういうことで「なるほどね?」と思ったりしてしまう。社会人で言ったら4年目のはずなのに!!


ただ、結構疲れているのは事実だから来月あたり連休を作ろうと思う。有給をくっつけてさ。前もって「ここ休むんで」といって手に入れる休みと当日に「行けません」で手に入れてしまう休みの差よ、気持ちのよい1日としたい。


あと最近思ってるのは、「ひとの好きなものを好きになるにもエネルギーがいる」ということ。職場でBTSがめちゃ好きな人がいて、私は一応メンバーのお顔と曲が少しわかる程度なんだけど、私と同じくらいの理解度だった先輩が「えーそんなにあなたが言うなら調べてみるよ!」と言って見事にハマり、こないだ例のガムを大量に買うとこまで行っていた。めちゃくちゃ楽しそうである。相手の好きなもののことをもっと知りたいって思えるってめちゃくちゃ元気で素直で素敵なことだ。素体のポテンシャルもあるんだろうけど...。私も楽しそうなことにフットワーク軽く飛び込んでいきたい。さっさと体調戻して健康になるぞ。

好きなもの派生でひとつ、私の好きなゲームにTwitterのお友達がげきハマりしてくれてめちゃくちゃ嬉しいのと楽しいのとで毎日にこにこしながらタイムラインを眺めている。自分の「これ好きなの!!」に誰かが共感してくれたり理解してくれたりするのってすごく嬉しいね、ひとりでコソコソ楽しんできたから毎度「クゥ〜ッ!!」となっている。

アイドルマスターシャイニーカラーズはね...良いんですよ...推し(とか好きなもの)についての話もブログに書きたいなあと思うのに、思うだけで終わっている。こういうのもやめたいなあ。書き出したらズルズル出てくるのにね。ハリーポッターダンブルドアが頭に杖つけてなんか白いのズルズル引き出して水に浮かべるシーンあるじゃん、もうほんとあれになる。糸は切れないけど...綿菓子みたいにくるくる巻かないと多分終わらないけど...だからかなあ。長くなるってわかるし掘って掘って掘った先に何があるのか分からないし怖いのかもしれない。ホホホ。


バファリンが効いてきたから午後もやれそう、今日もさっさと終わらせて定時で帰るぞ!



犬と同居

先週から同じ部屋で犬と暮らしている。

ゲージがベッドのすぐ横にあるのは動物と暮らし始めて16年経っても初めてのこと、結構面白いので忘れないように書きたい。


定点カメラを置いて、部屋の温度と彼女がぐったりしてないか&悪さをしてないかを細かく確認できるようにしている。

↓これは昨日の朝私がカーテンを開けた時

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この目線の先に私のベッドがある。


1日5回に分けてカロリーを摂る彼女は、うちに来てすぐの骨が浮き上がったゴチゴチ状態から少し大きくなった。よく跳ねるし、よく遊ぶ。つい一昨日までは抱っこをしてカタカタ震えていたけれどだいぶ慣れてきた。


↓これは今。だいぶ部屋が寒い(22度)ので遠隔操作で室温を上げた。

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なんか変なとこを見てるな...何見てんだろう。


私の部屋、前々から「なんかいるな〜」と思ってたんだけどチビが何もないところに向かって吠えたり尻尾を振ったりするので「うん」と確信、もう少ししたらまたお香を焚こうと思っている。

昔からちょいちょい嫌な感じがしたらお香を焚く癖がある。


彼女と同じ部屋で暮らしはじめて、深夜の闇落ちが少なくなったように思う。この小さなかたまりを見ていると口角が上がって「まあええか」となり、眠くなる。セラピー...。こんなに一生懸命生きてる命があるんだから...となるのは毎度のことだけど、その度にパワ〜をもらってしまうな。

朝起きて、ベッドの反対側までもぞもぞ頭を動かしておはようと言う。フルパワーであいさつをしてくれる。ちゃんと寝てるのか不安になるけど。

トイレをおぼえること、おもちゃを振り回すこと、先住犬とのご挨拶、彼女の毎日が目まぐるしく変わっていってるんだろうなと思いながら一緒に暮らしています。

GoProも買って、なんやかんやで成長記録をつける気満々です。ふふふ。


今のところ、細いおもちゃ→歯応えの良いおもちゃ→軽いおもちゃ→音のなるおもちゃ の順にテンションが上がっている。紐系か〜あぶないな〜ウーン...と思いながら様子を見る日々。







温泉いきたいな〜


湯と文学のまちで育った。

学校帰りには幼馴染と近所の温泉に行って、その時の気分で死海の塩を買って肌に塗り込むような子どもだった。小学校の卒業式前にも行ったのを覚えている。札止め明けの、いちばんきれいなお湯の中で泡と踊りながら「中学もがんばろうね〜」などと話していた。

坊ちゃんは絶対読まされたし、町探検では温泉街を歩かされたし、長期休暇の宿題には絶対俳句を作らされる。そういう環境だった。

東京からここに戻ってきて、新しい仕事を始めて、もうすぐ1年になる。さっき職場の人に「もう長いこといる気がするけどね〜」と言われてヘヘヘと笑うなどした。昨日はややこしい作業をひとりでミスなく完結させられてよかった。

山陰地方で暮らし始めた幼なじみから「限界」と連絡が来て、意外とこの街がちゃんと流行りに対応していてミーハーな県民性だったと気付く。排他的ではないらしい。お友達に「エルメスがない土地がある」と教えてもらってヒョ〜と思ったものだけど、幸いなことにこの街にもそれは出店していて、たまにお客さんがいるのを見る。ここを出るまでは「何もないクソ田舎である」と評価していたけれど、出て戻ってきて分かるものもあるんだなあと超当たり前のことを感じたりしてしまう。

湯の質がいい。(そして湯処が多い)

新しいものがちゃんと上陸する。

大きくて整備された緑地の公園もある。(よくランナーがお堀の周りを走っている)

それだけで、結構充分なんだよなあと思ってしまう私は日和ってしまったのかもしれないな。


この感情と並行して「3ヶ月くらいどこかの土地で暮らしたーい」という気持ちもすくすく育っているから混乱する。根無草になりたいわけではない。

どこかに行きたいのかなあ。

安定してくると壊そうとするいつもの癖なのかもしれない。

崩れることでバランスを取って、崩すことまで考えて予定を立てる。やだ〜!!!そういうのも、もうやめたい。崩さずにちゃんとやる方法だってあるはずなのだ。前に進むぞ。


この週末は温泉に行きたいなと思っている。

湯上がりに飲むのはボルヴィック。昔は牛乳が飲めなかったから、瓶のそれを飲む友達の横で青くてやわらかいペットボトルからこれまたやわらかい水を飲んでいた。

人のいない一番風呂を狙ってるけどどうかなあ。

ほこほこの顔で、湯上がりで〜すの顔をして歩いて帰るのをやりたいな〜。




あついね


3連休はずっとシャニマスをしていて、好みの女の子を優勝させるのに必死だった。あらゆる情報を切っていたから閉会式でchosen familyが使われたのを知ったのは月曜で、まあるい殺意というのが国に対して生まれたりした。案の定ツイッターのLGBTQ界隈は荒れていて、どうして...という人もあれば噴火している人もいた。SNSで暴れている様を見るのが辛くなったのがいつからか正確には覚えていないけれど、私は少し前から「降りたい、でも好きな人たちの生活をチョロと見るのは楽しい」の狭間にいて、ウーンとうなりながら見たり見なかったりしている。


多様性を掲げるのに実際は何一つ認めていない日本は終わっているというツイートを見た。

多様性。

もう私は最近この言葉が苦手になってきているんだけどどうなんでしょうか。スポット的なものかもしれないけど、女らしさの押し付けには敏感になっているのに男らしさのそれに対してあまりにも無自覚というか、「〜べき」をかなり無意識にやっている人間が多い気がする。男の人ならこうしてほしい〜とか、彼氏になるならこれじゃなきゃいや〜とか、しんどいしんどい、しんどい!!お前、逆サイドの人間が「女ならこうしろよ」とか言ったら即SNSに書くじゃん!みたいな...自分自身の行動と思想があまりに差別的なことに無自覚というのは怖い、多様性ウンヌンじゃ無くても思う。思う機会が多すぎる。

先々週のあちこち観て思ったこと、おじさんという言葉が許されるのにおばさんにはめくじら立てるとかその典型じゃないですか?

おじさんもNGにするか、おばさんをOKにするかのどっちかしかないよね、フェアじゃないじゃん。自分が泳ぎやすいエリアの拡大だけしてんじゃないよって思う。「俺が生きやすいように」なシステムを構築した、昭和のサラリーマンと根っこのところ同じじゃないですか。いやこんなことみんな分かってると思うし今更だよねってなるんだけど、閉会式のアレとかLGBTQに物申す的な動画とか目に入りすぎてウワーとなってしまった。物申すな。お前は男として生まれて女が好きなことに物申されたことあるのかよ。


多様性って言葉が便利すぎるんだよな、そういえば小野不由美が5,6年前の何かのエッセイで「エモい」という言葉もいつか消費尽くされて終わるのだ とか書いてあるのを読んでまじでその通りになったなと思ったんだけど、多様性も同じく早く消費し尽くされてほしい。

認める認めないじゃなく、ただそういうふうに「在る」ような暮らしが当たり前にならないかな。無理かなあ。ぬるいこと言ってんだろうなあ。


あとなんだっけ、まだ言いたいことあったんだよね。

アレだ、子を産んで生活が苦しいとか言うのはアホだ、わかってるんだから産まなきゃ良いじゃん/なんで産んだの のやつ。

いやそこじゃないでしょう、と思ったんだよ。私は実際だいぶ前までこの考え方で、「アホがアホを産む」とか思ってたんだけど間違ってたなあと思う。

そりゃ1人育てるのにかかる費用を出せないまま産んだ(実際にある、見る)はあちゃ〜と思うけど、後から事態が変わったパターンだってあるんじゃないかなあ。

私は産んだことないから分からないけど、不測の事態の連続らしいじゃないですか、1人の人間を育てるのって。それをさ、ニュースの一場面だけ切り取って「若いのに産むから殺す羽目になった」とかさあ。ううん。産後のストレスで激太りした人間に対してもそう、「なんでストレスがかかることを把握してなかったの?」じゃないんだよ。鬱じゃんあれ、産後鬱。ただ目の前のことを頑張ってやって、夜泣きと数時間ごとのミルクで疲労困憊して、眠れる時間も手をかける時間もなくて、救いが食べ物になった...って言うのも分かる。想像がすごくできる。それに対して「いや私は太らなかったし」とかは違うんだよね、そんな突き放し方ある!?

ここまで書いて昼休みが終わって、家に帰ってごそごそしてそのまま寝ていた。

翌朝です、おはよう。

さっきインスタのタイムラインをばーと眺めていたら橋本愛さんが可愛らしいポーズで写真をあげてらして、「あー懐かしい、なりたかった脚だなあ」となった。高校生の頃の私がなりたかった脚。カモシカというよりバンビのような、直線のそれ。懐かしいな。マウジーのサイズ0を履くのに必死だった。実際履いてたけど、こないだ足つっこんだら脹脛までしか上がらなくて爆笑してしまった。

あとKOKIさんのお尻が良すぎて二度見してしまった。なんじゃその曲線。お尻の写真でよくあるような、骨盤を前傾にしまくって腰反らすみたいな小技をつかってないのカッケ〜!!

惹かれるところが変わったなあ。

ちゃんと止まってないな、よかった。

残り3日頑張ろうね〜〜〜。




ハニオ日記

石田ゆり子さんの書かれた『ハニオ日記』が先日出版されました。3冊とも無事購入でき、青い箱のほうも後日届く予定です。

2016年から2021年までのインスタグラムの投稿を本にまとめた今回のハニオ日記。

私は2017年頃から石田さんのアカウントをフォローさせてもらっていて、彼ら(石田さんちの家族)の毎日を眺めさせてもらっています。東京で、一人暮らしで、動物と離れて暮らす私にとって彼女のインスタグラムは本当に救いであり癒しでした。


彼女の著書で初めて読んだのは、初代ラブラドールの花ちゃんとの日々をまとめた「はなちゃんの夏休み」。チョコレート色でやんちゃな彼女と石田さんの奮闘記録にはたくさん笑わせてもらって、そこからエッセイを知って、天然日和がすごく好きだなと思って。動物への接し方、愛情の注ぎ方、日常への考え方と姿勢、文章の雰囲気。そこから石田さんのファンになりました。

インスタグラムの方では猫のハニオのきもちを投稿したり、石田さん自身のことをぽつぽつ語られたり、どちらもすごく『石田ゆり子』という人となりが文にあらわれているようで楽しいのです。


読み終わった感想ですが、とっても、とっても、とっっても優しくて心が澄む感覚になったというのが率直なところです。曖昧だなと自分でも思います。でも本当にそう。

ずっとインスタグラムで目にしていた投稿が、紙として手元に現れて、1日1日のページをめくりながらなぞるだけでこんなにも受け取り方が違うものなのか。正直驚いています。

でもそれと同じくらい幸せな気持ちになっている。

読んでいると、自然と口角が上がるのです。そして目尻は下がります。『ハニオ日記』の名の通り、猫のハニオとしての石田さんちの様子がとても可愛らしく書かれています。



ささみのふんいき。ちゅーるのかおり。

ぼくがあたらしいこに みずのみばをおしえます。

おかーさんが ちいさいこをつれてきた。


こんな感じ。


なんてかわいいの。

ささみのふんいき だなんて、そんな言葉の繋ぎ方がありますか。


3冊に分けているとはいえ5年分なので、1冊がしっかり分厚い。2cmちょいくらいあります。

インスタグラムの投稿をまとめただけでなく、箇所箇所に石田さん自身の言葉で2-3ページほど文が紡がれていて、私が特に胸を打たれたのは、「動物は、人間がどれだけ治療を施そうとあがいても 一つひとつ確実に体の機能を閉じていく。」というところ。

本当にそう。避けられないことと分かっていて、日々理解しつつ一緒に暮らしていても別れの時はどうやったって悲しいし辛いしやるせない。疾患によるものであれば尚更です。でもこれが不思議なもので、動物は確実に、潔く、虹の橋を渡る準備を始めるんですよね。先のことを考えて泣くのではなく、今の、この瞬間だけを精一杯生きる。抗うことなく身体の機能を閉じていく。だからこそ人間として、一緒に暮らすパートナーとして、彼らに出来ることは全てしてあげたい。機能を閉じるにしても、なるべく痛みの少ない方法で。自然の流れを止めないように。そして、心臓の止まる最後の時までうちの子になってくれてありがとうと思う。

別ページに綴られていた、「私の日々は彼らにおんぶにだっこ、である。弱った心や疲れた体をいつも変わらず癒してくれる彼らは私にとっては神様のような存在であるのです」という箇所にもうう、泣いてしまう。


私は12の頃から犬と暮らすようになりました。

ペットショップで、3年もケースの中に入れられて、保健所に連れていかれる運命にあった子をご縁により迎えたのが最初です。年々増えて、見送って、拾って、引き取って。今は3匹の犬と2匹の猫。

私の家は、確実に動物のおかげで崩壊せずにここまで来ました。これは家族全員がそう言います。はちゃめちゃな状況が続いた時も、この子達の笑顔のおかげで救われて、この子達の体のことをきっかけにして会話をしていたように思います。石田さんの仰っている「神様のような存在」というのが、すごく分かる。

彼らは憎んだり理不尽に怒ったり攻撃したりしてきません。性格もあると思いますが、いつも笑顔で、たのしく、こちらがしゅんとしていると元気付けようとしてくれる。

日々に追われる中でその当たり前の有り難さに甘えてしまいそうになりますが、本当はすごく幸せなことなのだよなと改めて思います。

ペットショップから保健所への流れを自然に書いてしまったけれど、業界のさがとして仔犬仔猫でなければ価値がないとされる世界です。石田さんは、その販売オークション(2か月にも満たない頃から出されます)から弾かれてしまった子たち(はちみつ兄弟、ばぶお、バンビがそう)を引き取って暮らしています。

はちみつ兄弟に関してはスコティッシュフォールドなのに耳が折れていないから。

そんな。

でもそれが現実なんですよね。

生体販売を禁止した国は増えているのに、この国だけ放置とされていて。命に値段をつけて、価値がなくなれば即処分して、そんなサイクルがうまれているのが現状です。

私に出来ることは署名に参加するだとか、ふるさと納税の返礼を保護犬の会にするだとか、そういう小さなことしか無いけれど。

しないよりはしたい、と思います。

ハニオ日記の印税はすべて保護犬・保護猫のたちのために使うと明記されていて、そこも「うわあ石田ゆり子さんだ」と思いました。勝手な感想ですが。


すごく素敵な本だよと言いたいのに話が逸れてしまった気がするな。


ハニオ日記は、ぺらぺらっとてきとうに開いたページを見開きで読むだけでなんだか元気が出る本です。

動物の表情、それにマッチしたなんともいえない語り口の文章、本そのものから漂うあたたかくて柔らかい何か。

心の苦しいとき、クサクサしてしまうとき、さみしいとき、なんだか癒されたいとき、優しいものに触れたいとき。そんな瞬間にめくりたいなと思います。


↓ほんとはもう1冊あります

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(読書感想文は楽天ルームに適当に投げることが多いんだけど、こんなにまるく優しく純粋なものをアフェリエイトサイトで紹介するのはぜったい違う、と思ってブログに書くことにした。少しでも、これを読んでくれた方がハニオ日記に興味を持ってもらえたら嬉しいです。石田ゆり子さんのインスタグラムはとっても良いよ。)


最近のおもしろテレビその後と最近のこと

大豆田→脱落しかけたけど先週面白かったらしいからまだやめない。

生きるとか死ぬとか→3話で脱落した。よそからの人間が集まって出来る東京に違和感があるという台詞で「そっかあ〜」と思ったのだけ覚えてる。あとは全部忘れた。

コントが始まる→相変わらず観てる!面白い!これは良いドラマだ!!一昨日のはまだ観てないけど、予告で有村架純がスーツ着てたから就活でもするのかなあ。先々週くらいの、相手に言ってほしいことを言われず押されると思ってた背中を押されずに一瞬「えっ」となってしまうシーンがすごく良かった。そこで「まじか〜」で済ませる二人と「あの人がダメって言った、うわあああ」となる一人、それに対して菅田将暉の吐いた「お前今度は誰の意見に流されてんだよ」がリアルで良かったなあ。そうなんだよねえ、結局他人は他人だから自分で全部背負って正義と思った方向に飛ぶしかないんだよ。

あちこち→相変わらず楽しい

そして!!今晩!!たりないふたりのラストライブがあります!!!アーーーー怖い、すごくこわい。でもすごく嬉しい。無観客でって決まった時にオッシャと思ってしまった最低なファンを許してくれ。こないだhuluで過去のやつ全部見たんだけど、2人とも全く違うおじさんになっててウケてしまった。進化後が違った!!っていうより、ルート選択の結果としてああいうおじさんになったんだよな。じわっじわ変わっていってたから気付いてなかったけど、2012年とは全然違う。そりゃそうか。無数にある選択肢の結果で今のたりないふたりがあるように、私も選択の結果としての私しかないのである。

そういえば先週元上司から連絡が来て、「大昔のことだけど報告しとくね、局を窓際コースに異動させました。遅くなってごめん。」とあった。

2年前よ!?と思うと同時にかなり手回ししてくれたんだな〜と思って「当時の私が喜んでます、ありがとうございました」と返信した。選択かあ。


あと最近はずっと米を作ってる。

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去年の秋に買って、しばらく遊んで「面白い!先を遊ぶのがもったいない!これは寝かせるぞ!」となってずいぶん寝かせた。

基本的に22-23時以降は寝てるから連絡が途絶える私なのですが、最近2時とかにLINEの返信をしたりしている。ゲームをしているからです!!!友達に「またゲームしてんの」と言われた、その通りである。



ちなみに一昨日読んで面白かった漫画↓


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サッカーを!!している!!激アツで24巻(最新)まで一気に買って読んじゃった。


「だから、こういう状況だから、どうするか??」「今の自分に何ができるか?」をずっと繰り返していて、腐らなくて諦めなくて受け入れてただただ研鑽を積むその姿勢に夜通し引き込まれてしまった。


私はゲームと漫画が大好きで、初めてやるゲームは時間が本当に溶けるし奇声をあげる(本当にあげる)くらい楽しいし初めて読む漫画を読んだ後に目がカッと開いてギラギラになってる感覚が大好き。

もっと遊びたいし読みたい。

そのためにぼちぼち働くまである。

無心で仕事して、サクッと退社して、帰ったら好きな時間にダイブするのだ。

本当はそこに追加してお芝居をたくさん観にいきたいしライブだって参戦したいけど、まだ先の楽しみとして取っておく!


とにかく今日は!!18:30からたりないふたり最後のライブがあるので!!!!!絶対に帰るぞ!!