朝ぼらけ

遠浅

超楽しかった翌日のリバウンド凹みが来ている

同じ映画を2回観る体力がなくなった。

1回観たものを繰り返して観るのは時間が勿体無いなと思った自分が嫌になった。

益田ミリの新聞エッセイを職場の人が切り抜いて持ってきてくれて読んでみたら、「オタクって羨ましい」「熱中できる、好きなものがあるのは(異様な阪神ファンだった自身の父を含めて)かっこいいと思う」というようなことが書いてあってちょっとよく分からなかった。嘘、彼女の書きたいことは分かるんだけど、その「好きなものがあるっていいな」という感覚を理解できなかった。これはオタクの市民権の話と似たようで違う、個体としての感情の差の話。私はオードリーの若林さんが好きだし一生漫才とラジオをやっててほしいしグッズのパーカーだって買うけれど、潜在能力テストを観たりスクール革命を観たり日向坂の番組を観たりはしない。あちこちと、ラジオと、エッセイと、ノートと、あと対談ぐらいだ。この押さえるポイントが人によって変わるのはあると思う。ジャニオタの先輩はLINEスタンプ購入はもちろん、1時間のバラエティの1コーナーに出演するのだって録画するし1冊のうち2ページしか載ってないような雑誌だって買っていたし、とにかく出演するものを全部押さえていた。この先輩みたいな行為のことを「オタクがする一般的なやつ」と思ってるから「好き」に対するハードルが上がってるんじゃないか。違うのかな。

ここまでしないと「好き」と言ってはいけないみたいなものを感じる。そんなことないのに。自分の感覚の手綱がどこかに行ってしまってることに気付いてない、というパターンも考えられるけどだいぶ怖い。


記事を読んだ時、今は産休に入っている職場の人に「あなたは好きなものがあって羨ましい。わたしにはそんなにハマれるものはない」と言われたことを思い出した。私の周りには「これが好きでさあ」と話すような人しかいなかったから。強いて言うなら大学の時の知人がその好きなものが分からないような感じだったかなあと思う。全て疎遠になったから今はもう分からないけれど、彼女らが熱狂的にこれが好き!と話していた記憶がない。県下の進学校に進んで、県下の大学に入って、そのまま地銀にパン職で入って早めに結婚するのが安全だし正解だと信じていたひとたち。青文字系を進行していたひとたち。何を話していたのかも思い出せないもう4年も前の話。そういうことなんだろう。


好きなものが無いのではなくて、感情の振れ幅が5ミリずつくらいしかないのだ。もしくは、好きと主張するためのチェックリストが異様に多い。自分で思えばいいだけなのに。誰に向かって言ってるんだろう。


この前都内の友達と話していて、地震に新しい株に大変そうだけどたまにザマミロと思ってしまうとボヤいたらいや東京の人間はそんなの気にしてないし地震に関しては「え〜?」という感じでオミクロンに関しても「なに、新しい株〜?」というノリで何一つ動揺もショックも受けてないし大変じゃないよと言われて「ああ」となった。そんなもんなんだろうな。


1か月くらい前、部屋の整理と周りの動きを見ていて悔しいと思った。

自分で手に入れたはずの、扶養を抜けてもちゃんと歩いていける道が今はまた畦道になっていることが許せなかった。石畳の綺麗な道だったはずなのに。取り戻したいと思う。前は悔しいと思うことも恥ずかしかったし取り戻すなんて考えるのもみっともないと思っていた。でももうそんなのは言ってられない。手綱を離したらどうなるか分かってきてしまった。怖いと思う。

畦道を抜け出したい。その為に何が必要で、どういう風に動いていけばいいのか考えている。